遠山を見るがごとく

練習ノート

(※これはアマチュア奏者の試行錯誤を記録したものですので、分析や見解が正しいとは限りません。)

「明日は乾燥しますので、火のとり扱いには十分ご注意ください」
という天気予報の言葉にピクリと反応する本番1ヶ月前。

発見があった。

きっかけはふと手に取った「巻き肩、反り腰特集」の雑誌。
ぺらぺらめくっていると

一点凝視の「目の力み」は全身の緊張につながり宜しくない。
宮本武蔵はこの一点凝視を「ひんむきの目」と呼んだ。
理想は遠くの山を見るように、部分ではなくふわりと全体を捉える視線。

とある。

「ひんむきの目」!!心当たりがありすぎる…

それによって起こる現象もよくわかる。

難所が近づくと無意識に視線も意識も一点凝視。
視線が固まると体も固まる。
視界が狭まっているので、見えない恐怖でさらに体が硬直。
なんとかしようと身体が硬いまま無理に動かすものだから音程は安定せず、音色も硬くなる。
身体が固まっているから自然なビート感が絶える。
意識が目に集中しているから耳もろくに機能せず、アンサンブルにも支障。
思うように音が出せない自分にますます焦って足掻いて、絡まるもつれる…

よーく知ってる、この悪循環。

でも言われてみればそう、「目」が元凶である。

本当は「意識」かもしれないが、「視線」の方が変えやすい、対処しやすい。

そう思って臨んだ合奏練習。
宮本武蔵にはなれなかったが、
「ひんむきの目」になりかかっている時には気がついて「遠くの山を見る」と心の中で唱えてみた。

すると、いくつかの難所はするりと越えられ、あの悪循環から抜け出せた瞬間があった。

今までも、力が入っているから力を抜く必要があることは知っていたが、それが出来なかった。試みれば他の場所に力みが走ったり、一部だけがダラリと頼りなくなったり。

でも「力を抜く」ではなく「力が抜ける」という自然発生的にそうなる状態をどこか別のところで作ればいい、つまり視線を変えてみる。

解けないなぞなぞの答えが思いがけないトンチだったような若干の悔しさがある。
楽器を弾くコツというものは「なんだ、そんなことだったの!!」と思うようなことだと私の師匠も仰っていた。

「視線」侮るなかれ…。

「ひんむきの目」には誘惑もある。集中している、感情が入っている、頑張っている「感じ」がするのだ。見た目だけでなく、自分自身も一生懸命やってる感があるのだ。
浅ましいこと。宮本武蔵先生はお見通し。

しかし、次の疑問は、遠くの山を見るような意識でいて、どうやって情熱や悲しみなど激しい感情を表すのか。

当事者として実際の情熱や悲しみに打たれている時は「遠くの山」どころじゃなく、自然と一点凝視の意識になっていると思うのだが。

また武蔵先生に尋ねてみようか。

記録者:バイオリン三澤

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